絵文字リテラシと知性

大学院時代の後輩が、mixiの日記で絵文字を多用するのだけど、それが俺にはなじめない。
世の中の若い世代(俺だって若いけど!)にはケータイ文化の影響で文章に絵文字を使ったり、それを読んだりすることに抵抗が無いのだろう。

絵文字がふんだんに使われた文章は、俺にはどうも賢く見えない。しかし件の彼は仮にも国立大学の大学院生であり、研究成果でいえばむしろ俺よりも優秀な成績を修めている。
賢さは絵文字の使い方とは関係がなく、単に俺が絵文字のリテラシを持っていないというだけの話である。

絵文字が使われ方において他の日本語と大きく異なるのは、出版物やビジネス文書に使われていない表現であるという点だろう。
絵文字は、ひらがな、カタカナ、漢字よりもはるかに感情表現にすぐれているが、現時点では正式な文書には使われにくい。もちろん世代の差は関係あるが、たとえ絵文字世代が人口を満たしでも、絵文字の表現力の豊かさはそのまま意味の曖昧さに繋がるため、曖昧な表現が嫌われるそうした文書では使われにくいだろう。

正式な文書に使われない言語は世に残らないのかといえば、そうとは限らない。たとえば平仮名はフランクな文学、今でいえばケータイ小説のような立場から生まれ、手紙などで使われるようになった。まさに絵文字と似た境遇である。

何が言いたいかというと、自分が受け入れられない文化を、正しくない、知的でないなどと批判するのはあまり賢いやりかたではなく、かえって歴史を無視しており、冷静に本質をとらえることが知性というものである。