あたしはきっと小学生の時からなにひとつ変わっちゃいない。姿形がどれだけ変わろうとも、あたしの中身は常に変わらずにあったと今では思う。友達が入れ替わり、環境が変わっても、あたし自身は変わらず連続していた。しかし、人は変わらなければいけない。世界を受け入れなくてはいけない。人間というものを知らなくてはいけない。孤独を自覚したまま群れに入らなくてはいけない。
だがあたしは昔からあたしだった。
あたしにとっては世界なんてものはあたし自身でしかなかった。
立ち入った人付き合いの苦手だったあたしは常に友達とは一本の線を引いた上で付き合っていた。それはうまくいっていた。端から見ればいつも友達に囲まれていたあたしも心の中は孤独であったが、それは嫌な孤独ではなかった。あたしにはこういう生き方が合っているのだと思った。それを確立したのは小学校の高学年になった頃。あたしは人より早く気づけたからそういう振る舞いが出来たんだと思う。小学生なんてガキだ。だが自分がガキであることに、沢山のガキの中のひとりであることに、しかし自分が他人と違う個体であることに、本当の意味で気づいていたのなんてあのとき一体何人いただろうか。そういう意味ではあたしと松島は同類の人間だった。
松島鉋〈かんな〉は美人だった。しかし彼女は自分が美人であることにいち早く気づいてしまった。そして自分の頭脳が他人よりもいくらか上等に出来ていることにも。それは自分の優秀さに気づかないまま大人になり平凡な生涯を送るよりも、何倍も不幸なことなんだと思う。松島は男子にも女子にも人気で、いつしか学年のアイドル的な存在にまでなった。生徒会長に推され、優良児童に選ばれ、優れたリーダーシップを発揮した松島の行く末には華やかな人生が待っているであろうことを誰も疑わなかった。
しかしそれは松島の望んだことではなかった。輝かしさの内側で彼女は苦しんでいた。その苦しみを見抜いていたのはあたしだけだった。松島は同じように、あたしの線の中の孤独を見抜いていた。
そしてあたしたちは出会った。
一見するとまるで正反対の松島とあたしは、本当は同じ種類の人間だった。人間の持ち合わせた本質的な孤独にあたしたちは幼くして気づいてしまった。しかしあたしは、松島と違って何かを持って生まれては来なかった。容姿は並で勉強は並以下、運動神経も松島には劣った。だがそれが唯一、あたしが松島に比べて恵まれていた点なのだ。大きすぎる才能は往々にして生きる邪魔をする。何も持たなかったあたしは身軽に生きていくことができた。
あたしたちは出会うべくして出会った。お互いを分かり合い、お互いしか分かり合うことのできない宿命的な親友となった。
あたしたちの関係はつかず離れず、適度な距離を保ちながら親密さを獲得していった。それは恐らくあたしと松島にしかできないことだった。学校で一緒に過ごすことは少なかったが、あたし達の精神が物理的な距離を超えて繋がっていることを二人とも理解していた。理解しているつもりだった。
松島がおかしくなり始めたのは中学校に入ってからだった。
中学にもなると周囲の彼女への期待は過度になりすぎていた。それでも努力を惜しまない松島は自分を追い込むようにして勉強をし、委員会をこなし、部活で活躍した。そんな松島を尻目にあたしはなにひとつ努力をせずにのんべんだらりと暮らしていた。松島はアリで、あたしはキリギリスだった。そのころあたしは学校というシステムに関するコツのようなものを掴み、最低限の力で赤点を逃れる方法を確立していた。つまりは力を抜いてうまく生きていく方法を見いだしていた。しかし松島がそれをやることを、周囲は許さなかった。誰も強制はしていない。それは自分がそうしてしまったのだ。自分が作り出してしまった松島鉋を、彼女は演じざるを得なくなってしまった。彼女はその鬱憤を内へ内へと溜め込んでいき、それがやがて狂気へと変わっていった。
あるときあたしは学校のトイレで松島と遭遇する。
松島は手洗い場で血を吐いていた。極限のストレスが胃壁を破壊したのだ。
「松島! ねえ、大丈夫? 保健室へ行こう」
「行かない」
手を引くあたしを制止して松島は言う。
「このことは誰にも言わないで」
彼女は完璧を求めていた。完全なるものを目指していた。そのためにはなにひとつ欠けていてはならなかった。だがあたしだけは知っている。松島が欠点だらけの人間であることを。
松島はあたしを買いかぶっていた。確かに、小学校の頃は成績を競ったこともあったしテストの点を比べ合ったりもしていた。しかし小学校のテストなんてものは実際のところ学力との相関性は低い。どんな馬鹿であっても方法論を掴むだけで成績は上がる。しかし中学の勉強はそれとはわけが違うのだ。中学に入った途端あたしと松島の学力の差は、席次という指標によって明確になった。もともとあたしと松島は頭の出来がまるで違う。松島は天才で、しかも秀才だった。あたしはそのどちらでもない上に、努力を怠っているのだ。それでも松島はあたしと自分を比べようとする。あたしへの苛立ちはそこから生まれた。
「どうして伊月はいつも本気を出さないの?」
松島は強い口調で言ってあたしを睨む。松島は怒っていた。
「本当は私よりも頭がいいくせに!」
松島は頻繁にそのことを口にした。松島は、あたしが秘めた能力を持っているくせにそれを使おうとしないことが、どうしても許せないという。確かに、あたしは勉強なんてまったくしなかったが数学だけは多少できた。数学だけなら松島の点数を上回ったことだってある。松島はきっとそのことを言っているのだ。しかしあれは松島のミスと、あたしの幸運とが偶然重なって起こったものだ。いくらテストの点数で勝っても、松島とあたしの頭脳の差は覆ったりしない。だが松島の言うことはあたしの思うそれとは逆のことだった。
「いくら勉強しても、いくらいい点を取っても、私は伊月に勝った気がしない」
松島は、自分の中に作り上げてしまったあたしを、いつまで経っても越えられないでいた。松島の中のあたしは、もちろん買いかぶりだった。手を抜いてばかりいるあたしが、彼女の目には本当の能力を隠しているように見えているだけだというのに。
三年生になると彼女は高校受験に向けた本格的な勉強を開始した。日に日に彼女の体は痩せ、頬は痩け、肌は荒れ、目の下にはいつも隈を作るようになった。彼女の美しさは次第に損なわれていった。しかしすべてが完璧でなければならなかった松島にはそれが許せなかった。そしていつしか松島はそれを隠すために薄く化粧をするようになる。もちろん中学校では化粧は禁止されているし、ただでさえ視線の集まる松島が化粧をして、ばれないはずがない。
松島は職員室に呼び出され、教師から注意を受けた。松島が大人に叱られることが、一体どれほどの事件なのか想像できるだろうか。彼女にとってどれだけプライドを傷つけるものであったか、それは彼女自身にしか分からないことだった。血で作り上げた完全性の決壊だった。松島は自分がおこなったことに対する計り知れない後悔を抱き、彼女は職員室で号泣した。強く振る舞っていた松島が学校で涙を見せたのはこれが初めてだった。
今思えば松島が変わっていったのはそのことがきっかけなのかもしれない。
「もうなにをやってもうまくいかない気がする」
中学生活で初めて首席を取り逃した松島は、あたしにそうぼやいた。「何をやってもうまくいかない」。彼女はあの事件以来、常に何かに対して焦っているように見えた。
松島とつきあい始めたのもその頃だった。
松島は、それが当たり前のように、あたしに告白をした。「私と付き合って」。付き合う? あたしはそれがどういう意味なのか分からなかった。松島は学校の帰りに唐突に言い出したのだ。このあとどこかへ寄り道をすると言うことなのだろうか? しかしそれなら「私と」ではなく「私に」が適切な気がする。混乱するあたしに、松島は続けて言う。「伊月のことが好きなの」。ああ? なんだ、そういう意味か。松島はあたしを好きで、あたしと付き合って欲しいと言っているのだ。「いいよ」とあたしは言う。あれ? いいのか? まあいいや。
そのときのあたしは、肝心なことに気づいていなかった。それに気づいたのはあたしが自分の部屋に帰って、いくらか冷静さを取り戻した頃だった。
松島鉋は女であり、国枝伊月もまた女であること。
しかしそれは恋愛をする上ではあまり大した問題ではない気がした。中学生の当時は確かに同性の先輩に憧れたりといった、ちょっとした同性愛というものが確かに存在していたし、あたしが女の子同士の恋愛というものに全く興味がなかったと言えば嘘になる。松島は美人だし、頭もいい。恋人としては何の不満もない。それに松島のことは嫌いじゃない。あたしは断る理由が見つからなかったので、松島と付き合うことにした。軽い気持ちだった。それは好奇心だったのかもしれなかった。
男と付き合ったことすらもなかったあたしは、少し浮かれていた。誰にも教えない秘密の関係。一緒に帰ったり、デートをしたり、やっていること自体はそれまでとあまり変わらなかったが、一つ一つのことが新鮮に思えた。綺麗な松島。頭のいい松島。いい匂いのする松島。柔らかな手の松島。あたしは次第に松島に惹かれていった。それは純粋な感情だった。完全さと不完全さの間でさまよう松島。あたしは危うい松島を守ってあげないといけないと思った。
松島は、可哀想な子なのだ。
「苦しいよ」
泣きながら言う松島を、あたしは黙って抱きしめる。丁寧に、綺麗な髪を撫でてあげる。
「生きてることが苦しいよ」
そのことは知っていた。松島はそれをいままで口にしなかっただけなのだ。あたしと恋愛関係になることによって、あたしたちは友情を越えた親密さを獲得した。そこまでしないと、松島は自分の弱さをあたしにさらけ出すことができなかったのだ。強がっている松島の本当の弱さ。聖人のような松島の内面の汚さ。自分の汚さに悩む松島の優しさ。それが松島の真実の姿なんだと思った。完璧な人間という皮を脱いだ彼女は、本当は普通の人間なのだ。そしてその、飾らない真実の姿を見せられたあたしは、松島を愛するようになった。壊れてしまいそうなほど弱く、哀れな松島を、あたしは、包み込んであげたかった。
しかしあたしは松島の愛情が、あたしのそれとは違うことを知る。
松島はいつものようにあたしにしがみついて泣き、そしてあたしはそれを慰めるために抱きしめて頭を撫でる。松島の柔らかい唇にキスもする。それは甘い時間だった。その世界の中ではあたしと松島の繋がり以外はすべて意味を失っていた。あたしは松島のことだけを感じていた。あたしの中にあるものは松島のことだけだった。
なのに、松島はあたしの体が欲しいという。
あたしはそれを聞いてすこし硬直し、松島に体を差し出すことの意味と、松島と寝ることについてあたし自身がどう思っているかを考えた。でもその甘い時間の中では答えなんて出ない。あたしはもちろん松島を欲していたし、いつでもそうなってしまう雰囲気が確かにあった。その中にいても、外の時間に残してきた一握りの理性が、それは今決めることではないとをあたしに教える。それは雰囲気に流されて決めていいことではないんだ。
あたしは松島を抱きしめている、松島の匂いに満たされた世界の中で、松島と寝るべきか、せざるべきかを悩む。
でもそのどちらもきっと正解ではなかったのだと今では思う。松島と寝ることを選んでも、松島を拒むことを選んでも、それらはどちらも正解ではないのだ。どっちを選んだって、松島の破滅に結びつくことには変わりないのだ。
あたしは悲しんだ。どちらを選ぶことも許されていたというのに、あたし自身の素直な感情がそのとき発露して、あたしはどうしても松島と寝る事なんてできなかった。松島のためになりたかったのに、あたしのエゴがそれを許さないのだ。そのことがとても悲しかったし悔しかった。それにこの問題に直面してしまったら、きっとあたしたちはもう長くはないんだということもあたしには分かってしまう。
あたしが何も応えることができないでいたとき、事態は急変した。
それはあたしの部屋のベッドの上。あたしの腕の中にいた松島は突然、腕を振り払ってあたしを押し倒す。両手を押さえつけられ、松島が覆った影の中にあたしはいる。松島の目は真剣で、しかも冷たかった。しかしあたしの手首を掴むその両手は熱い。それは冷静さの中に押し込めた興奮と狂気だった。松島の顔が近づく。火照った唇が重なる。むせかえるように上気した体温の中、熱く濡れた舌があたしの口の中に滑り込む。拒むことができない。絡み合う舌。あたしは拒むことが、できない。
濃密な時間は一体どれだけ続いたのだろう。長い、長い、脳を溶かすようなキスの末、松島の手はあたしの制服のスカートの中に潜る。あたしは、残された最後の理性で、覆い被さる松島を突き放す。二人の唇は名残惜しそうに糸を引いて離れる。
もうそのときあたしは冷静ではなくなっていた。脳はほとんど溶かされてしまっていたし、
判断力なんてもう無かったんだと思う。だからこの後に言ってしまった言葉は、本当は絶対に言うべきではなかった。しかし判断力が無くなってしまっているが故に、それこそがあたしの本心だったのかもしれない。
口の中に残る松島の唾液。今まではこんな気持ちになることなんてなかったのに、あたしは理由の分からない嫌悪感によって、それをティッシュに吐き出した。松島の、目の前で。
「気持ち悪い」
とあたしはその言葉を唾液と一緒に吐き捨てた。
あたしのおこなったことの意味を、そのときあたし自身はよく分かっていなかった。あたしは松島との行為を気持ち悪いと思い、唾液を吐き捨てただけなのだ。行動が先行し、追従すべき思考活動は止まっていた。
あたしの愛情。
松島の性欲。
大人になりきれなかった子供の恋愛。
あたしは興味本位なんかで松島と付き合うべきではなかったのだ。松島の恋愛感情が性欲を孕んでいることに、どうして気づいてあげられなかったのだろう。あたしは松島のすべてを理解していたつもりだったのに、本当は何も分かってなかったのかもしれない。松島のためを思うのなら、最初から何もしない方がよかったのだ。あたしの好奇心なんかで、気軽に踏み込んでいい事柄ではなかったのだ。松島は鋼鉄のプライドを崩してまであたしにすべてを捧げてきた。あたしは松島に残された最後の居場所だったはずなのに、あたしはそれを好奇心で踏みにじってしまったのだ。でももう気づいたときには崩壊が始まっていた。一切を崩壊し尽くすあたしの裏切り。もう取り返しはつかなかった。
胃を切り裂くような後悔。どこまで戻ればやりなおせるのだろうか? この先あたしたちはどうなってしまうのだろうか? あたしは松島に殺されることを覚悟した。それは仕方のないことだと思う。あたしを殺した後に松島はきっと自殺する。あたし達の因縁の時間がそこで途切れる。それが今からたどり着ける最も美しい終わりなのだと思った。
だが現実はそんなに綺麗じゃない。
「なんで……そんなことをするの?」
松島は途方に暮れたような顔で言う。衝撃が大きすぎて感情が作りきれていないのだ。
「やめよう。こんなの、あたしにはできない」
「どうして?」
「分かんない……ていうか、やっぱりこんなことおかしいと思う……だって……」
あたしはその先が言えなかった。いくらか戻ってきた理性が、それを制止するのだ。女同士でこんなことをするのはおかしい―――そう言ってしまうことは簡単だが、今更それを言ってどうする? 松島は最初からそんなこと分かったうえで、あたしに交際を申し込んできたのだ。そこにたどり着くまでに、松島にどれだけの葛藤があったのかは計り知れない。あの松島が、自分のプライドや完全性を犠牲にしてまで踏み切った、同性愛という選択を、あたしは受け止めてしまったのだ。交際を承諾した瞬間から、松島は、今日この日のことを思い描いていたのかもしれない。あの瞬間にあたし達は、沈みゆく舟に乗ってしまったのだろうか。
「やっぱり……」
松島の表情から冷静の色が消える。
「やっぱりうまくいかないんだね。こんなに頑張ってるのに、私は、なにひとつ手に入れられないんだよ。学校のことも、家のことも、それにあなたのことだって、結局私は最後には失敗しちゃうんだ。何であたしはこんなに駄目なんだろう……ああ、畜生」
頭を抱えて自己嫌悪に陥る松島に、あたしはなんて声をかければいいのか分からない。どうしてだろう? どうして松島はこんなことになってしまったんだろう? あたし達がここまでたどり着いてしまったのは、一体何がいけなかったからなのだろう?
「伊月。私のこと、好き?」
あたしはそれに頷く。それはいくらかぎこちなくなってしまったかもしれない。
「だったら、なんで……」
「ねえ、松島、聞いて。あたしたち、こんなことしなくてもやっていけるよ。あたしはあんたのことが好きだし、松島もそうでしょ? だったら、それで十分じゃない。こんなことをするまでもなく、あたしたちはいつも分かりあえるでしょう?」
松島を説得していたつもりだったのに、あたしはその言葉が自己弁明になっていくのを感じた。口から出てくる言葉が、すべて、自分の気持ちの裏返しのように思えた。頭の中に響く崩壊の音が鳴りやまない。あたしは泣きそうになる。
「それじゃあ嫌なの。私は、全部欲しいの。なにひとつ、取り残したくないし、もう、失敗なんてしたくないの。伊月、私たちはまだ何もつまずいてない。うまくいってる。今だって、何の問題も起こってない。そうでしょ? 何も起こっていない。ね? やり直そうよ……」
ぶつぶつ、と松島はうわごとのようにそれを言う。松島はもうおかしくなってしまっている。松島自身もそれは分かっている。二人の間に流れる崩壊の音から、耳をそらすのに必死なのだ。だがもう元には戻らない。可哀想な松島をもう助けてやることはできない。
あたしは自分の中の熱っぽい感情が収まっていくのを感じる。それは夢から覚めていくまどろみだった。同時に、あたしの思考回路はいままでとすこし違う種類の感情に書き換えられていく。じわじわとその感情が脳に染み渡っていき、あたしの目は完全に覚めてしまう。
あたしは一体今まで何をしていたんだろう?
目の前で泣き崩れる哀れな松島を見下ろすあたしの目にうつるものは、もう以前のようなものではなかった。松島鉋という、美しくも醜い、哀れな生き物。松島はある意味であたし自身だった。そこにいるのは、もうひとりのあたしなのだ。あたしはまるで鏡の中の自分をみているような嫌悪に陥る。今ここで傷つき泣いているのは松島であり、あたしなのだ。あたしはあたし自身の弱さによって傷つけられ、泣いているのだ。
あまりに、哀れ。
あたしは松島を直視できなかった。腹立たしい気持ちでいっぱいだった。馬鹿な松島。馬鹿なあたし。弱い、あまりに子供な自分を、認めたくはなかった。
あのころ、あたしははやく大人になりたかった。
子供だったあたしは、子供には何もできないことを知っていた。はやく大人になってしまいたかった。こんなくだらないことで苦しまなくてはいけないのは、自分が子供だからだと思っていた。大人は何でもできるのだ。あたしも松島も大人だったら、自分たちのエゴを押しつけあうことはしなかったのだ。何もかもうまくやっていくことができたのだ。
あたしはどんなことにも全力を出さなかった。最低限必要な力だけを使って生きていた。松島はそんなことをせずに、何に対しても力を惜しまない。勉強も、人間関係も、自分の持てる全てを尽くし、そして全てを手に入れようとしていた。もしあたしがああいう生き方をしていたら、松島のようになっていたのだろう。松島はプライドを捨ててあたしに全てをぶつけてきたが、あたしは松島に全てを捧げることができなかった。あたしが持っていたのはうわべだけの優しさ。残酷な同情。あたしは結局松島さえも、壁の内側に入れてやれなかった。
子供であることに嫌悪していたあたし。子供なりに全力で生きようとした松島。あたしは松島のそういうところが嫌だった。だってさ、どんなに頑張ってもさ、ねえ、松島、あたしたちは、子供は、何も手に入れることができないんだよ! 最後には大人に全部うばわれて、泣くしかないんだよ!
松島とは高校が別々になってから、音沙汰が無くなった。松島はあたしと別れてから再び偽りの自分を持ち直し、有名な進学校へ進学した。まったく、つくづく救われない女だとあたしは思う。そして松島と同じくらいあたしも救いのない女だ。
はやく大人になりたい。
あたしは盲目的に時間を過ごすことを覚える。現在という時間に捕らわれずに、思考を殺し、記憶を閉ざし、何も覚えず、何も思い出さず、あたしは人生という海にたゆたいながら生きていく。いつか読んだ小説のように、あたしが目を覚ましたとき、あたしはきっと大人になっている。
しかし目を覚ましても、大人になんかもちろんなっていない。
あたしの弱さの象徴。子供時代の象徴。
だからあたしは、松島なんかに会いたくはなかった。